M151A2 FORD MUTT FOR SALE!

年末に入庫したM151A2ですが、整備箇所の見極めも終わりまして、いよいよ販売態勢に入ります!!
アンカットボディーで、すっきりた車体です。とは言え、製造から40年は経過してるかな?という老兵ですから、それなりの覚悟と知識はないと厳しい車です。
車検は平成29年7月まで、3ナンバー登録なのでNOX/PM規制地域でも登録可能です。
M60LMG用のマウント、無線機、ウォーターフォーディングキット付で、マニアさんホイホイ仕様です。
前オーナー様より、ミッションオイルが減る(漏れかな?)との申告がありましたので、リビルトミッションへ載せ換え、各部点検整備、油脂類交換、リヤタイヤ3分山につき2本交換、などなどしっかり整備して158万円(税別・所費用別)でいかがでしょうか?
*上記内容での販売では、整備に1ヶ月程度掛かりますのでご諒解ください。
現状渡しで大丈夫というツワモノさんには、値引き販売も可能ですのでメールにてご連絡ください。
特殊なお車となりますので、対応できるスタッフも限られます。
お電話頂いたり、アポ無しで御来店頂いても、ご対応があ難しいです。
お問い合わせは必ず、WMG&ジムニー秘密基地&社長の小部屋のいずれか宛のメールにてお願い致します。
くろがね四起備忘録その2(後期型考察)
4型~5型★後期量産型、昭和15年8月~昭和19年製造(3人乗り?4人乗り?ジープ型)

さて、問題の4型であります。
くろがね四起後期型と言えば、石川県の日本自動車博物館に国内唯一の現存車が展示されております。
これは後述する5型であり、4型が実際に量産されたのかどうか?個人的に大いに疑問があるのです。
試しにWeb上で、あるいは過去の書物で探してみてください。戦場で撮影されたくろがね四起後期型は5型ばかりです。

昭和15年8月からフルモデルチェンジして生産が開始された後期型ですが、影山氏の著作や過去の雑誌記事を鳥瞰すると、4型の存在が謎として浮かび上がります。
上写真の5型と一番上の写真の4型を、外見的特長から違いを探ると、エンジン冷却のために大型化されたフロントグリル、一度は廃されたのに、同じくエンジン冷却のために復活した前期型同形状のフロントサイド通風口が判り易いです。
ここで自分が4型について疑問に思うことを列記します。
1.影山氏の著作では昭和14年5月に発表されたと記述されている。
2.日本内燃機の部品図から、フレーム形状やエンジンマウント方式など後期型への仕様変更は昭和15年8月からと確認できる。
3.影山氏の著作では5型の生産は昭和17年度(1942年)からと記述されている。
4.青木氏の記事でも昭和14年から後期型が生産されたとの記述がある。
上記4つの記述を組み合わせてみると、パズルのピースはぴったりはまってくれないのです。
そでどころか、謎が謎を呼び、推理小説のような様相を呈します。
悩みながら、よくよく一枚目の4型の写真を眺めていると、この個体は明らかに前期型シャーシにボディーが架装されています!
フロントバンパー形状が前期型のそれですし、決定的なのは燃料タンクの位置です。

前期型です。燃料タンクはフレーム後端に吊り下げ式に装着されています。

後期型です。燃料タンクはフレーム後端の上部に搭載される方式に変更されました。
悪路走行時に路面に隠れた岩石により、燃料タンクをヒットする可能性を廃するために、正しい進化と言えるでしょう。
賢明な読者諸氏なら、ここまで情報が集まれば結論は概ね出揃うかと思いますが、自分が整理したところででは以下のような推論になります。
1.4型は昭和14年5月~昭和15年7月まで前期型シャーシに4人乗りボディーを架装して生産された。
*これはロシア現存車や我々の修復中のくろがねのデータプレートやエンジン製造番号と整合性がないので、まずありえません。
2.4型は昭和14年5月に発表され、少数が試作、試験に供され、その結果を基にして昭和15年8月から5型として後期型が生産された。
*自分はこの辺が正解かな?と現時点では思ってします。前述したとおり、4型の写真は日本内燃機の工場を背景にしたものか、多摩川河川敷で撮影された公式写真しか確認できないからです。
3.4型は同時にピックアップトラックが発表されている。トラック型は全て海軍に納入された形跡があるので、実は4型は海軍仕向けに昭和14年5月から3型と平行して海軍向けに生産された。
*自分は3型に海軍マークがついた当時の写真を見た記憶がありません。また、くろがね四起の開発経緯が陸軍主導だったことを考えても、海軍がボディー形状を変更せよと指示する可能性は開戦前のこの時期なら大いに有り得ると考えます。海軍への納車台数が生産期間を通じて480台しかなく、その多くがピックアップトラック型だとすれば、ジープタイプの4型の生産台数は一割程度と仮定して50台を超えるとは思えないので、現存写真が無くても納得できるのですが・・・いかがでしょうか?
横浜くろがね商会で工場長をされていた駒井氏も、海軍さんのくろがねは全部トラックばかりだったと証言されています。
上記推論は、一次資料が無く、現時点ではすべて自分の妄想の類です。
しかし妄想とはいえキッカケはあるわけでして・・・この4型ピックアップトラック(2人乗りトラック型)のエンブレムに注目してください!

海軍の錨がしっかり付いています。
ここでもう一度、本稿一版最初の4型の写真をよく見てください・・・やはり錨マークが付いているんです!
ここから先の判断はこれからの資料収集と研究を待たねばなりません。
最後に乗車定員について考察して、後期型の稿を締めたいと思います。
1型と2型は2+2の4名定員です。
3型は2+1の3名定員です。
4型は影山氏の記述では2+2の4名定員となりますが、5型は3名と4名の二種類があったとされています。
3型のロードスタータイプの室内容積を増やしたジープ型にすることで、4型は後席横並び2名を実現したわけです。
現在確認できる5型の写真では後席は3型に逆戻りして真中に1名となり、3名定員です。せっかく室内容積を増やしたのに、どうして後戻りするような仕様が存在するのか?そのヒントは後期型のシャーシ写真にあります。
燃料タンクの位置をもう一度確認してください!
5型から燃料タンクがフレーム上部に移動したことにより、貴重な室内容積が大きく削がれていることが判ります。
これにより、後部座席が4型よりも数十センチ前進し、後席乗員の両足は3型同様にフロント左右シートの真中に投げ出すしか無かったと考えられないでしょうか?
4型を後期型ととらえるか?前期型の派生型とするか?
このような視点、論点で過去に語れた形跡はなく、影山氏を初めとする緒先輩方も後期型には3人乗りと4人乗りがあったとう証言に惑わされることになったのではないでしょうか?実際には4型が4人定員、5型は3人定員というのが自分の考えです。
いずれにせよ、戦後の日本軍悪玉説が幅を利かせ、アメリカが持ち込んだ新しいモノ,進歩的なモノが良しとされる経済成長の時代に、影山氏を初めとした先輩方の日本軍車両に対する情熱的な資料収集と研究の結果あればこその仮説です。
じっくりと見極めながら、結論を導くための備忘録としてまとめてみました。
最後までお付き合いありがとうございます。
・・・皆様のご意見、ご感想をお寄せ頂ければ幸いです。

さて、問題の4型であります。
くろがね四起後期型と言えば、石川県の日本自動車博物館に国内唯一の現存車が展示されております。
これは後述する5型であり、4型が実際に量産されたのかどうか?個人的に大いに疑問があるのです。
試しにWeb上で、あるいは過去の書物で探してみてください。戦場で撮影されたくろがね四起後期型は5型ばかりです。

昭和15年8月からフルモデルチェンジして生産が開始された後期型ですが、影山氏の著作や過去の雑誌記事を鳥瞰すると、4型の存在が謎として浮かび上がります。
上写真の5型と一番上の写真の4型を、外見的特長から違いを探ると、エンジン冷却のために大型化されたフロントグリル、一度は廃されたのに、同じくエンジン冷却のために復活した前期型同形状のフロントサイド通風口が判り易いです。
ここで自分が4型について疑問に思うことを列記します。
1.影山氏の著作では昭和14年5月に発表されたと記述されている。
2.日本内燃機の部品図から、フレーム形状やエンジンマウント方式など後期型への仕様変更は昭和15年8月からと確認できる。
3.影山氏の著作では5型の生産は昭和17年度(1942年)からと記述されている。
4.青木氏の記事でも昭和14年から後期型が生産されたとの記述がある。
上記4つの記述を組み合わせてみると、パズルのピースはぴったりはまってくれないのです。
そでどころか、謎が謎を呼び、推理小説のような様相を呈します。
悩みながら、よくよく一枚目の4型の写真を眺めていると、この個体は明らかに前期型シャーシにボディーが架装されています!
フロントバンパー形状が前期型のそれですし、決定的なのは燃料タンクの位置です。

前期型です。燃料タンクはフレーム後端に吊り下げ式に装着されています。

後期型です。燃料タンクはフレーム後端の上部に搭載される方式に変更されました。
悪路走行時に路面に隠れた岩石により、燃料タンクをヒットする可能性を廃するために、正しい進化と言えるでしょう。
賢明な読者諸氏なら、ここまで情報が集まれば結論は概ね出揃うかと思いますが、自分が整理したところででは以下のような推論になります。
1.4型は昭和14年5月~昭和15年7月まで前期型シャーシに4人乗りボディーを架装して生産された。
*これはロシア現存車や我々の修復中のくろがねのデータプレートやエンジン製造番号と整合性がないので、まずありえません。
2.4型は昭和14年5月に発表され、少数が試作、試験に供され、その結果を基にして昭和15年8月から5型として後期型が生産された。
*自分はこの辺が正解かな?と現時点では思ってします。前述したとおり、4型の写真は日本内燃機の工場を背景にしたものか、多摩川河川敷で撮影された公式写真しか確認できないからです。
3.4型は同時にピックアップトラックが発表されている。トラック型は全て海軍に納入された形跡があるので、実は4型は海軍仕向けに昭和14年5月から3型と平行して海軍向けに生産された。
*自分は3型に海軍マークがついた当時の写真を見た記憶がありません。また、くろがね四起の開発経緯が陸軍主導だったことを考えても、海軍がボディー形状を変更せよと指示する可能性は開戦前のこの時期なら大いに有り得ると考えます。海軍への納車台数が生産期間を通じて480台しかなく、その多くがピックアップトラック型だとすれば、ジープタイプの4型の生産台数は一割程度と仮定して50台を超えるとは思えないので、現存写真が無くても納得できるのですが・・・いかがでしょうか?
横浜くろがね商会で工場長をされていた駒井氏も、海軍さんのくろがねは全部トラックばかりだったと証言されています。
上記推論は、一次資料が無く、現時点ではすべて自分の妄想の類です。
しかし妄想とはいえキッカケはあるわけでして・・・この4型ピックアップトラック(2人乗りトラック型)のエンブレムに注目してください!

海軍の錨がしっかり付いています。
ここでもう一度、本稿一版最初の4型の写真をよく見てください・・・やはり錨マークが付いているんです!
ここから先の判断はこれからの資料収集と研究を待たねばなりません。
最後に乗車定員について考察して、後期型の稿を締めたいと思います。
1型と2型は2+2の4名定員です。
3型は2+1の3名定員です。
4型は影山氏の記述では2+2の4名定員となりますが、5型は3名と4名の二種類があったとされています。
3型のロードスタータイプの室内容積を増やしたジープ型にすることで、4型は後席横並び2名を実現したわけです。
現在確認できる5型の写真では後席は3型に逆戻りして真中に1名となり、3名定員です。せっかく室内容積を増やしたのに、どうして後戻りするような仕様が存在するのか?そのヒントは後期型のシャーシ写真にあります。
燃料タンクの位置をもう一度確認してください!
5型から燃料タンクがフレーム上部に移動したことにより、貴重な室内容積が大きく削がれていることが判ります。
これにより、後部座席が4型よりも数十センチ前進し、後席乗員の両足は3型同様にフロント左右シートの真中に投げ出すしか無かったと考えられないでしょうか?
4型を後期型ととらえるか?前期型の派生型とするか?
このような視点、論点で過去に語れた形跡はなく、影山氏を初めとする緒先輩方も後期型には3人乗りと4人乗りがあったとう証言に惑わされることになったのではないでしょうか?実際には4型が4人定員、5型は3人定員というのが自分の考えです。
いずれにせよ、戦後の日本軍悪玉説が幅を利かせ、アメリカが持ち込んだ新しいモノ,進歩的なモノが良しとされる経済成長の時代に、影山氏を初めとした先輩方の日本軍車両に対する情熱的な資料収集と研究の結果あればこその仮説です。
じっくりと見極めながら、結論を導くための備忘録としてまとめてみました。
最後までお付き合いありがとうございます。
・・・皆様のご意見、ご感想をお寄せ頂ければ幸いです。
くろがね四起備忘録その1(前期型考察)
くろがね四起前期型の内装がどのようになっていたのか?
その謎を解明するための、楽しい知的旅行へと皆さんと共に出発するために、前提となる情報を共有させて頂きます。
まずは、くろがね四起のボディー形状による分類について。
故・影山夙氏の著述(4X4マガジン1987年11月、12月号及び「走四輪駆動車!」山海堂)が一般的かと思うので(当方も馴染んでいる)、先人の研究を基にまとめさせて頂きたいと思います。
また2014年に発表された、大阪市立大学院大学院の坂上茂樹教授の論文が大変な労作であり、今回も参考にさせて頂きました。
生産台数の類推については、CG誌1971年10月号の青山順氏の記事も参考にさせて頂きました。
1型★試作車、昭和9年度製造(4人乗り2ドアクーペ型)

昭和9年(1934年)5月に陸軍の要望によって試作された日本内燃機の小型四輪駆動乗用車は、翌昭和10年に制式化され九五式小型乗用車、通称くろがね四起と呼ばれました。この試作車はフォードA型流用のスポークタイプホイールが使用され、当初はフレームのみでの試験に供され、制式化のために2ドアクーペボディーを架装されて完成されました。

われわれがイメージするくろがね四起とは外見もまったく違いますが、エンジン排気量は1200ccのフルタイム四駆で、フロントインボードブレーキ装備で、乗車定員は4名。
この形は試作1号車限りで、生産台数は1台のみとされます。
2型★先行量産型、昭和11年4月~昭和12年8月製造(4人乗りロードスター型)

試作車の機動性には満足した陸軍ですが、そのボディー形状は使い勝手が悪いということで、梁瀬自動車が専用に製造した2ドアオープンタイプのボディーを架装して陸軍に納入されました。各部が見直され、エンジンも1200ccから1300ccへ排気量アップされました。
製造台数は10台と言われますが、これは試作の一台も含まれると記録されていますので、試作車もボディー換装された可能性も否定できません。

2型はリアトランク部分を開けると補助席が現れて2人+2人の4人乗りでした。シャーシとホイールは1型同様なので、フロントブレーキ付きと言うことになります。
ヘッドライトには軍用車らしく遮光カバーも装備されておりますが、まだまだ民生車両の香りが立ち上る味わいのあるクルマです。
これら10台のテスト結果をもとに、さらに各部設計が煮詰められ、ボディー形状を全面的に見直して九五式小型乗用車として制式化されました。
3型★前期量産型、昭和12年9月~昭和15年7月製造(3人乗りロードスター型)

1937年9月から生産された3型は、エンジンが先行量産型の1300ccから1400ccに更に強化され、プラモデルでもお馴染みの「くろがね四起といえばこの形」のボディーが架装されました。
ホイールは専用のディッシュ型となり、おなじく専用のブリジストン製オフロードタイヤを装着しています。
日本内燃機は、その車名が示すとおりエンジンメーカーですが、ミッションやデファレンシャルなどは内製化している反面、フレームやボディーは社外注文していました。
3型は当初装着されたレバー式ショックアブソーバー式を、途中で円筒形のショックアブソーバーに変更する予定だったと思われます。そのため社内で製造していたロアアームやフォーシングの取付け基部は、アブソーバー仕様変更時に形状変更されるのですが、社外注文フレームに関しては当初から両方の形式のショックが取付け出来るようになっていました(現存前期型4台のシャーシ確認で発覚した事実です)。

ボディーに関しても、先行量産型のボディーを製作した梁瀬自動車を初めとして、数社から納入を受けていたようです。
この点は現存する3型を見比べると明らかで、外見上は一見して同じ様に見えるのですが、各部の補強リムの形状や、軽め穴の形状がまったく違う個体が少なくとも2種類あり、明らかに製造メーカーが違うと思われます。
1937年度、38年度、39年度と細部に変更を加えながらも、年間850台程度が工場から送り出されたそうです。
我々がレストア中の個体はデータプレートが失われているため確証は持てませんが、各部の特徴を分析した結果、3型の最終生産タイプである1939年度(昭和14年度)の生産と推測されます。
3型の乗車定員は全席左右2名と、後部中央に1名の合計3名で、そのリヤシート形状は、まったくもって不明です。
僅かに一枚、極初期に生産された昭和12年度型の側面図から、補助席のような簡易座席が見てとれますが、当時を知る方からは「将校が乗車するためにアームレストが付いたしっかりした後席があった」という証言があり、図面形状と一致しません。
工場から送り出された3000台弱と思われる3型の後部座席の形状は、初期の図面に描かれたモノとは全く違っていたと考えた方が良さそうです。
くろがね四起の生産台数については、一次資料に辿り付けないので推論となるわけですが、影山氏が1型~5型まで全てあわせて4775台(うち陸軍4295台、海軍480台)と明記されており、信頼に値すると考えます。
CG誌71年10月号の青山氏の記事には年度ごとの生産台数が明記されておりすが、これは年度モデルに割り当てられた車体番号をそのまま生産数としているようで、ちょっと納得行きません。なぜなら、この車体番号の合計は軽く5千台を超えますし、1型、2型だけで300台程の生産台数になってしまうからです。
大幅な仕様変更があれば、車台番号は仕切り直しとなったり、計画されても製造されない番号が出たりすることは一般的です。
前述のとおり、1型は試作車一台のみ、2型も10台内外の生産だったことは間違いないです。したがって、影山氏の最盛期の1939年~’41年には年産850台になったという記述を取りたいと思います。
もうひとつ話が面倒になる原因が4型の存在です。
一般に後期型と呼ばれる4型~5型については、章を改めて考察したいと思います。
その謎を解明するための、楽しい知的旅行へと皆さんと共に出発するために、前提となる情報を共有させて頂きます。
まずは、くろがね四起のボディー形状による分類について。
故・影山夙氏の著述(4X4マガジン1987年11月、12月号及び「走四輪駆動車!」山海堂)が一般的かと思うので(当方も馴染んでいる)、先人の研究を基にまとめさせて頂きたいと思います。
また2014年に発表された、大阪市立大学院大学院の坂上茂樹教授の論文が大変な労作であり、今回も参考にさせて頂きました。
生産台数の類推については、CG誌1971年10月号の青山順氏の記事も参考にさせて頂きました。
1型★試作車、昭和9年度製造(4人乗り2ドアクーペ型)

昭和9年(1934年)5月に陸軍の要望によって試作された日本内燃機の小型四輪駆動乗用車は、翌昭和10年に制式化され九五式小型乗用車、通称くろがね四起と呼ばれました。この試作車はフォードA型流用のスポークタイプホイールが使用され、当初はフレームのみでの試験に供され、制式化のために2ドアクーペボディーを架装されて完成されました。

われわれがイメージするくろがね四起とは外見もまったく違いますが、エンジン排気量は1200ccのフルタイム四駆で、フロントインボードブレーキ装備で、乗車定員は4名。
この形は試作1号車限りで、生産台数は1台のみとされます。
2型★先行量産型、昭和11年4月~昭和12年8月製造(4人乗りロードスター型)

試作車の機動性には満足した陸軍ですが、そのボディー形状は使い勝手が悪いということで、梁瀬自動車が専用に製造した2ドアオープンタイプのボディーを架装して陸軍に納入されました。各部が見直され、エンジンも1200ccから1300ccへ排気量アップされました。
製造台数は10台と言われますが、これは試作の一台も含まれると記録されていますので、試作車もボディー換装された可能性も否定できません。

2型はリアトランク部分を開けると補助席が現れて2人+2人の4人乗りでした。シャーシとホイールは1型同様なので、フロントブレーキ付きと言うことになります。
ヘッドライトには軍用車らしく遮光カバーも装備されておりますが、まだまだ民生車両の香りが立ち上る味わいのあるクルマです。
これら10台のテスト結果をもとに、さらに各部設計が煮詰められ、ボディー形状を全面的に見直して九五式小型乗用車として制式化されました。
3型★前期量産型、昭和12年9月~昭和15年7月製造(3人乗りロードスター型)

1937年9月から生産された3型は、エンジンが先行量産型の1300ccから1400ccに更に強化され、プラモデルでもお馴染みの「くろがね四起といえばこの形」のボディーが架装されました。
ホイールは専用のディッシュ型となり、おなじく専用のブリジストン製オフロードタイヤを装着しています。
日本内燃機は、その車名が示すとおりエンジンメーカーですが、ミッションやデファレンシャルなどは内製化している反面、フレームやボディーは社外注文していました。
3型は当初装着されたレバー式ショックアブソーバー式を、途中で円筒形のショックアブソーバーに変更する予定だったと思われます。そのため社内で製造していたロアアームやフォーシングの取付け基部は、アブソーバー仕様変更時に形状変更されるのですが、社外注文フレームに関しては当初から両方の形式のショックが取付け出来るようになっていました(現存前期型4台のシャーシ確認で発覚した事実です)。

ボディーに関しても、先行量産型のボディーを製作した梁瀬自動車を初めとして、数社から納入を受けていたようです。
この点は現存する3型を見比べると明らかで、外見上は一見して同じ様に見えるのですが、各部の補強リムの形状や、軽め穴の形状がまったく違う個体が少なくとも2種類あり、明らかに製造メーカーが違うと思われます。
1937年度、38年度、39年度と細部に変更を加えながらも、年間850台程度が工場から送り出されたそうです。
我々がレストア中の個体はデータプレートが失われているため確証は持てませんが、各部の特徴を分析した結果、3型の最終生産タイプである1939年度(昭和14年度)の生産と推測されます。
3型の乗車定員は全席左右2名と、後部中央に1名の合計3名で、そのリヤシート形状は、まったくもって不明です。
僅かに一枚、極初期に生産された昭和12年度型の側面図から、補助席のような簡易座席が見てとれますが、当時を知る方からは「将校が乗車するためにアームレストが付いたしっかりした後席があった」という証言があり、図面形状と一致しません。
工場から送り出された3000台弱と思われる3型の後部座席の形状は、初期の図面に描かれたモノとは全く違っていたと考えた方が良さそうです。
くろがね四起の生産台数については、一次資料に辿り付けないので推論となるわけですが、影山氏が1型~5型まで全てあわせて4775台(うち陸軍4295台、海軍480台)と明記されており、信頼に値すると考えます。
CG誌71年10月号の青山氏の記事には年度ごとの生産台数が明記されておりすが、これは年度モデルに割り当てられた車体番号をそのまま生産数としているようで、ちょっと納得行きません。なぜなら、この車体番号の合計は軽く5千台を超えますし、1型、2型だけで300台程の生産台数になってしまうからです。
大幅な仕様変更があれば、車台番号は仕切り直しとなったり、計画されても製造されない番号が出たりすることは一般的です。
前述のとおり、1型は試作車一台のみ、2型も10台内外の生産だったことは間違いないです。したがって、影山氏の最盛期の1939年~’41年には年産850台になったという記述を取りたいと思います。
もうひとつ話が面倒になる原因が4型の存在です。
一般に後期型と呼ばれる4型~5型については、章を改めて考察したいと思います。
あけましておめでとうございます!

元旦の御殿場は穏かな新春を迎えました。
ロードサービスは年末年始休まず頑張っておりますが、今年はノンビリしたお正月気分の当番を過ごしています。
新年は3日(日)より初売り、ガソリンスタンドも開店致します!
サービス、BP工場は5日(火)から平常営業致します。
「社長の小部屋」はくろがね四起のレストアの目処が立つまで臨時休館させて頂いております。
なんとか春休みには再開したいと考えておりますので、今しばらくお待ち下さい!!
本年もよろしくお願い致しますm(__)m