くろがね四起備忘録その1(前期型考察)
くろがね四起前期型の内装がどのようになっていたのか?
その謎を解明するための、楽しい知的旅行へと皆さんと共に出発するために、前提となる情報を共有させて頂きます。
まずは、くろがね四起のボディー形状による分類について。
故・影山夙氏の著述(4X4マガジン1987年11月、12月号及び「走四輪駆動車!」山海堂)が一般的かと思うので(当方も馴染んでいる)、先人の研究を基にまとめさせて頂きたいと思います。
また2014年に発表された、大阪市立大学院大学院の坂上茂樹教授の論文が大変な労作であり、今回も参考にさせて頂きました。
生産台数の類推については、CG誌1971年10月号の青山順氏の記事も参考にさせて頂きました。
1型★試作車、昭和9年度製造(4人乗り2ドアクーペ型)

昭和9年(1934年)5月に陸軍の要望によって試作された日本内燃機の小型四輪駆動乗用車は、翌昭和10年に制式化され九五式小型乗用車、通称くろがね四起と呼ばれました。この試作車はフォードA型流用のスポークタイプホイールが使用され、当初はフレームのみでの試験に供され、制式化のために2ドアクーペボディーを架装されて完成されました。

われわれがイメージするくろがね四起とは外見もまったく違いますが、エンジン排気量は1200ccのフルタイム四駆で、フロントインボードブレーキ装備で、乗車定員は4名。
この形は試作1号車限りで、生産台数は1台のみとされます。
2型★先行量産型、昭和11年4月~昭和12年8月製造(4人乗りロードスター型)

試作車の機動性には満足した陸軍ですが、そのボディー形状は使い勝手が悪いということで、梁瀬自動車が専用に製造した2ドアオープンタイプのボディーを架装して陸軍に納入されました。各部が見直され、エンジンも1200ccから1300ccへ排気量アップされました。
製造台数は10台と言われますが、これは試作の一台も含まれると記録されていますので、試作車もボディー換装された可能性も否定できません。

2型はリアトランク部分を開けると補助席が現れて2人+2人の4人乗りでした。シャーシとホイールは1型同様なので、フロントブレーキ付きと言うことになります。
ヘッドライトには軍用車らしく遮光カバーも装備されておりますが、まだまだ民生車両の香りが立ち上る味わいのあるクルマです。
これら10台のテスト結果をもとに、さらに各部設計が煮詰められ、ボディー形状を全面的に見直して九五式小型乗用車として制式化されました。
3型★前期量産型、昭和12年9月~昭和15年7月製造(3人乗りロードスター型)

1937年9月から生産された3型は、エンジンが先行量産型の1300ccから1400ccに更に強化され、プラモデルでもお馴染みの「くろがね四起といえばこの形」のボディーが架装されました。
ホイールは専用のディッシュ型となり、おなじく専用のブリジストン製オフロードタイヤを装着しています。
日本内燃機は、その車名が示すとおりエンジンメーカーですが、ミッションやデファレンシャルなどは内製化している反面、フレームやボディーは社外注文していました。
3型は当初装着されたレバー式ショックアブソーバー式を、途中で円筒形のショックアブソーバーに変更する予定だったと思われます。そのため社内で製造していたロアアームやフォーシングの取付け基部は、アブソーバー仕様変更時に形状変更されるのですが、社外注文フレームに関しては当初から両方の形式のショックが取付け出来るようになっていました(現存前期型4台のシャーシ確認で発覚した事実です)。

ボディーに関しても、先行量産型のボディーを製作した梁瀬自動車を初めとして、数社から納入を受けていたようです。
この点は現存する3型を見比べると明らかで、外見上は一見して同じ様に見えるのですが、各部の補強リムの形状や、軽め穴の形状がまったく違う個体が少なくとも2種類あり、明らかに製造メーカーが違うと思われます。
1937年度、38年度、39年度と細部に変更を加えながらも、年間850台程度が工場から送り出されたそうです。
我々がレストア中の個体はデータプレートが失われているため確証は持てませんが、各部の特徴を分析した結果、3型の最終生産タイプである1939年度(昭和14年度)の生産と推測されます。
3型の乗車定員は全席左右2名と、後部中央に1名の合計3名で、そのリヤシート形状は、まったくもって不明です。
僅かに一枚、極初期に生産された昭和12年度型の側面図から、補助席のような簡易座席が見てとれますが、当時を知る方からは「将校が乗車するためにアームレストが付いたしっかりした後席があった」という証言があり、図面形状と一致しません。
工場から送り出された3000台弱と思われる3型の後部座席の形状は、初期の図面に描かれたモノとは全く違っていたと考えた方が良さそうです。
くろがね四起の生産台数については、一次資料に辿り付けないので推論となるわけですが、影山氏が1型~5型まで全てあわせて4775台(うち陸軍4295台、海軍480台)と明記されており、信頼に値すると考えます。
CG誌71年10月号の青山氏の記事には年度ごとの生産台数が明記されておりすが、これは年度モデルに割り当てられた車体番号をそのまま生産数としているようで、ちょっと納得行きません。なぜなら、この車体番号の合計は軽く5千台を超えますし、1型、2型だけで300台程の生産台数になってしまうからです。
大幅な仕様変更があれば、車台番号は仕切り直しとなったり、計画されても製造されない番号が出たりすることは一般的です。
前述のとおり、1型は試作車一台のみ、2型も10台内外の生産だったことは間違いないです。したがって、影山氏の最盛期の1939年~’41年には年産850台になったという記述を取りたいと思います。
もうひとつ話が面倒になる原因が4型の存在です。
一般に後期型と呼ばれる4型~5型については、章を改めて考察したいと思います。
その謎を解明するための、楽しい知的旅行へと皆さんと共に出発するために、前提となる情報を共有させて頂きます。
まずは、くろがね四起のボディー形状による分類について。
故・影山夙氏の著述(4X4マガジン1987年11月、12月号及び「走四輪駆動車!」山海堂)が一般的かと思うので(当方も馴染んでいる)、先人の研究を基にまとめさせて頂きたいと思います。
また2014年に発表された、大阪市立大学院大学院の坂上茂樹教授の論文が大変な労作であり、今回も参考にさせて頂きました。
生産台数の類推については、CG誌1971年10月号の青山順氏の記事も参考にさせて頂きました。
1型★試作車、昭和9年度製造(4人乗り2ドアクーペ型)

昭和9年(1934年)5月に陸軍の要望によって試作された日本内燃機の小型四輪駆動乗用車は、翌昭和10年に制式化され九五式小型乗用車、通称くろがね四起と呼ばれました。この試作車はフォードA型流用のスポークタイプホイールが使用され、当初はフレームのみでの試験に供され、制式化のために2ドアクーペボディーを架装されて完成されました。

われわれがイメージするくろがね四起とは外見もまったく違いますが、エンジン排気量は1200ccのフルタイム四駆で、フロントインボードブレーキ装備で、乗車定員は4名。
この形は試作1号車限りで、生産台数は1台のみとされます。
2型★先行量産型、昭和11年4月~昭和12年8月製造(4人乗りロードスター型)

試作車の機動性には満足した陸軍ですが、そのボディー形状は使い勝手が悪いということで、梁瀬自動車が専用に製造した2ドアオープンタイプのボディーを架装して陸軍に納入されました。各部が見直され、エンジンも1200ccから1300ccへ排気量アップされました。
製造台数は10台と言われますが、これは試作の一台も含まれると記録されていますので、試作車もボディー換装された可能性も否定できません。

2型はリアトランク部分を開けると補助席が現れて2人+2人の4人乗りでした。シャーシとホイールは1型同様なので、フロントブレーキ付きと言うことになります。
ヘッドライトには軍用車らしく遮光カバーも装備されておりますが、まだまだ民生車両の香りが立ち上る味わいのあるクルマです。
これら10台のテスト結果をもとに、さらに各部設計が煮詰められ、ボディー形状を全面的に見直して九五式小型乗用車として制式化されました。
3型★前期量産型、昭和12年9月~昭和15年7月製造(3人乗りロードスター型)

1937年9月から生産された3型は、エンジンが先行量産型の1300ccから1400ccに更に強化され、プラモデルでもお馴染みの「くろがね四起といえばこの形」のボディーが架装されました。
ホイールは専用のディッシュ型となり、おなじく専用のブリジストン製オフロードタイヤを装着しています。
日本内燃機は、その車名が示すとおりエンジンメーカーですが、ミッションやデファレンシャルなどは内製化している反面、フレームやボディーは社外注文していました。
3型は当初装着されたレバー式ショックアブソーバー式を、途中で円筒形のショックアブソーバーに変更する予定だったと思われます。そのため社内で製造していたロアアームやフォーシングの取付け基部は、アブソーバー仕様変更時に形状変更されるのですが、社外注文フレームに関しては当初から両方の形式のショックが取付け出来るようになっていました(現存前期型4台のシャーシ確認で発覚した事実です)。

ボディーに関しても、先行量産型のボディーを製作した梁瀬自動車を初めとして、数社から納入を受けていたようです。
この点は現存する3型を見比べると明らかで、外見上は一見して同じ様に見えるのですが、各部の補強リムの形状や、軽め穴の形状がまったく違う個体が少なくとも2種類あり、明らかに製造メーカーが違うと思われます。
1937年度、38年度、39年度と細部に変更を加えながらも、年間850台程度が工場から送り出されたそうです。
我々がレストア中の個体はデータプレートが失われているため確証は持てませんが、各部の特徴を分析した結果、3型の最終生産タイプである1939年度(昭和14年度)の生産と推測されます。
3型の乗車定員は全席左右2名と、後部中央に1名の合計3名で、そのリヤシート形状は、まったくもって不明です。
僅かに一枚、極初期に生産された昭和12年度型の側面図から、補助席のような簡易座席が見てとれますが、当時を知る方からは「将校が乗車するためにアームレストが付いたしっかりした後席があった」という証言があり、図面形状と一致しません。
工場から送り出された3000台弱と思われる3型の後部座席の形状は、初期の図面に描かれたモノとは全く違っていたと考えた方が良さそうです。
くろがね四起の生産台数については、一次資料に辿り付けないので推論となるわけですが、影山氏が1型~5型まで全てあわせて4775台(うち陸軍4295台、海軍480台)と明記されており、信頼に値すると考えます。
CG誌71年10月号の青山氏の記事には年度ごとの生産台数が明記されておりすが、これは年度モデルに割り当てられた車体番号をそのまま生産数としているようで、ちょっと納得行きません。なぜなら、この車体番号の合計は軽く5千台を超えますし、1型、2型だけで300台程の生産台数になってしまうからです。
大幅な仕様変更があれば、車台番号は仕切り直しとなったり、計画されても製造されない番号が出たりすることは一般的です。
前述のとおり、1型は試作車一台のみ、2型も10台内外の生産だったことは間違いないです。したがって、影山氏の最盛期の1939年~’41年には年産850台になったという記述を取りたいと思います。
もうひとつ話が面倒になる原因が4型の存在です。
一般に後期型と呼ばれる4型~5型については、章を改めて考察したいと思います。