くろがね四起備忘録その2(後期型考察)
4型~5型★後期量産型、昭和15年8月~昭和19年製造(3人乗り?4人乗り?ジープ型)

さて、問題の4型であります。
くろがね四起後期型と言えば、石川県の日本自動車博物館に国内唯一の現存車が展示されております。
これは後述する5型であり、4型が実際に量産されたのかどうか?個人的に大いに疑問があるのです。
試しにWeb上で、あるいは過去の書物で探してみてください。戦場で撮影されたくろがね四起後期型は5型ばかりです。

昭和15年8月からフルモデルチェンジして生産が開始された後期型ですが、影山氏の著作や過去の雑誌記事を鳥瞰すると、4型の存在が謎として浮かび上がります。
上写真の5型と一番上の写真の4型を、外見的特長から違いを探ると、エンジン冷却のために大型化されたフロントグリル、一度は廃されたのに、同じくエンジン冷却のために復活した前期型同形状のフロントサイド通風口が判り易いです。
ここで自分が4型について疑問に思うことを列記します。
1.影山氏の著作では昭和14年5月に発表されたと記述されている。
2.日本内燃機の部品図から、フレーム形状やエンジンマウント方式など後期型への仕様変更は昭和15年8月からと確認できる。
3.影山氏の著作では5型の生産は昭和17年度(1942年)からと記述されている。
4.青木氏の記事でも昭和14年から後期型が生産されたとの記述がある。
上記4つの記述を組み合わせてみると、パズルのピースはぴったりはまってくれないのです。
そでどころか、謎が謎を呼び、推理小説のような様相を呈します。
悩みながら、よくよく一枚目の4型の写真を眺めていると、この個体は明らかに前期型シャーシにボディーが架装されています!
フロントバンパー形状が前期型のそれですし、決定的なのは燃料タンクの位置です。

前期型です。燃料タンクはフレーム後端に吊り下げ式に装着されています。

後期型です。燃料タンクはフレーム後端の上部に搭載される方式に変更されました。
悪路走行時に路面に隠れた岩石により、燃料タンクをヒットする可能性を廃するために、正しい進化と言えるでしょう。
賢明な読者諸氏なら、ここまで情報が集まれば結論は概ね出揃うかと思いますが、自分が整理したところででは以下のような推論になります。
1.4型は昭和14年5月~昭和15年7月まで前期型シャーシに4人乗りボディーを架装して生産された。
*これはロシア現存車や我々の修復中のくろがねのデータプレートやエンジン製造番号と整合性がないので、まずありえません。
2.4型は昭和14年5月に発表され、少数が試作、試験に供され、その結果を基にして昭和15年8月から5型として後期型が生産された。
*自分はこの辺が正解かな?と現時点では思ってします。前述したとおり、4型の写真は日本内燃機の工場を背景にしたものか、多摩川河川敷で撮影された公式写真しか確認できないからです。
3.4型は同時にピックアップトラックが発表されている。トラック型は全て海軍に納入された形跡があるので、実は4型は海軍仕向けに昭和14年5月から3型と平行して海軍向けに生産された。
*自分は3型に海軍マークがついた当時の写真を見た記憶がありません。また、くろがね四起の開発経緯が陸軍主導だったことを考えても、海軍がボディー形状を変更せよと指示する可能性は開戦前のこの時期なら大いに有り得ると考えます。海軍への納車台数が生産期間を通じて480台しかなく、その多くがピックアップトラック型だとすれば、ジープタイプの4型の生産台数は一割程度と仮定して50台を超えるとは思えないので、現存写真が無くても納得できるのですが・・・いかがでしょうか?
横浜くろがね商会で工場長をされていた駒井氏も、海軍さんのくろがねは全部トラックばかりだったと証言されています。
上記推論は、一次資料が無く、現時点ではすべて自分の妄想の類です。
しかし妄想とはいえキッカケはあるわけでして・・・この4型ピックアップトラック(2人乗りトラック型)のエンブレムに注目してください!

海軍の錨がしっかり付いています。
ここでもう一度、本稿一版最初の4型の写真をよく見てください・・・やはり錨マークが付いているんです!
ここから先の判断はこれからの資料収集と研究を待たねばなりません。
最後に乗車定員について考察して、後期型の稿を締めたいと思います。
1型と2型は2+2の4名定員です。
3型は2+1の3名定員です。
4型は影山氏の記述では2+2の4名定員となりますが、5型は3名と4名の二種類があったとされています。
3型のロードスタータイプの室内容積を増やしたジープ型にすることで、4型は後席横並び2名を実現したわけです。
現在確認できる5型の写真では後席は3型に逆戻りして真中に1名となり、3名定員です。せっかく室内容積を増やしたのに、どうして後戻りするような仕様が存在するのか?そのヒントは後期型のシャーシ写真にあります。
燃料タンクの位置をもう一度確認してください!
5型から燃料タンクがフレーム上部に移動したことにより、貴重な室内容積が大きく削がれていることが判ります。
これにより、後部座席が4型よりも数十センチ前進し、後席乗員の両足は3型同様にフロント左右シートの真中に投げ出すしか無かったと考えられないでしょうか?
4型を後期型ととらえるか?前期型の派生型とするか?
このような視点、論点で過去に語れた形跡はなく、影山氏を初めとする緒先輩方も後期型には3人乗りと4人乗りがあったとう証言に惑わされることになったのではないでしょうか?実際には4型が4人定員、5型は3人定員というのが自分の考えです。
いずれにせよ、戦後の日本軍悪玉説が幅を利かせ、アメリカが持ち込んだ新しいモノ,進歩的なモノが良しとされる経済成長の時代に、影山氏を初めとした先輩方の日本軍車両に対する情熱的な資料収集と研究の結果あればこその仮説です。
じっくりと見極めながら、結論を導くための備忘録としてまとめてみました。
最後までお付き合いありがとうございます。
・・・皆様のご意見、ご感想をお寄せ頂ければ幸いです。

さて、問題の4型であります。
くろがね四起後期型と言えば、石川県の日本自動車博物館に国内唯一の現存車が展示されております。
これは後述する5型であり、4型が実際に量産されたのかどうか?個人的に大いに疑問があるのです。
試しにWeb上で、あるいは過去の書物で探してみてください。戦場で撮影されたくろがね四起後期型は5型ばかりです。

昭和15年8月からフルモデルチェンジして生産が開始された後期型ですが、影山氏の著作や過去の雑誌記事を鳥瞰すると、4型の存在が謎として浮かび上がります。
上写真の5型と一番上の写真の4型を、外見的特長から違いを探ると、エンジン冷却のために大型化されたフロントグリル、一度は廃されたのに、同じくエンジン冷却のために復活した前期型同形状のフロントサイド通風口が判り易いです。
ここで自分が4型について疑問に思うことを列記します。
1.影山氏の著作では昭和14年5月に発表されたと記述されている。
2.日本内燃機の部品図から、フレーム形状やエンジンマウント方式など後期型への仕様変更は昭和15年8月からと確認できる。
3.影山氏の著作では5型の生産は昭和17年度(1942年)からと記述されている。
4.青木氏の記事でも昭和14年から後期型が生産されたとの記述がある。
上記4つの記述を組み合わせてみると、パズルのピースはぴったりはまってくれないのです。
そでどころか、謎が謎を呼び、推理小説のような様相を呈します。
悩みながら、よくよく一枚目の4型の写真を眺めていると、この個体は明らかに前期型シャーシにボディーが架装されています!
フロントバンパー形状が前期型のそれですし、決定的なのは燃料タンクの位置です。

前期型です。燃料タンクはフレーム後端に吊り下げ式に装着されています。

後期型です。燃料タンクはフレーム後端の上部に搭載される方式に変更されました。
悪路走行時に路面に隠れた岩石により、燃料タンクをヒットする可能性を廃するために、正しい進化と言えるでしょう。
賢明な読者諸氏なら、ここまで情報が集まれば結論は概ね出揃うかと思いますが、自分が整理したところででは以下のような推論になります。
1.4型は昭和14年5月~昭和15年7月まで前期型シャーシに4人乗りボディーを架装して生産された。
*これはロシア現存車や我々の修復中のくろがねのデータプレートやエンジン製造番号と整合性がないので、まずありえません。
2.4型は昭和14年5月に発表され、少数が試作、試験に供され、その結果を基にして昭和15年8月から5型として後期型が生産された。
*自分はこの辺が正解かな?と現時点では思ってします。前述したとおり、4型の写真は日本内燃機の工場を背景にしたものか、多摩川河川敷で撮影された公式写真しか確認できないからです。
3.4型は同時にピックアップトラックが発表されている。トラック型は全て海軍に納入された形跡があるので、実は4型は海軍仕向けに昭和14年5月から3型と平行して海軍向けに生産された。
*自分は3型に海軍マークがついた当時の写真を見た記憶がありません。また、くろがね四起の開発経緯が陸軍主導だったことを考えても、海軍がボディー形状を変更せよと指示する可能性は開戦前のこの時期なら大いに有り得ると考えます。海軍への納車台数が生産期間を通じて480台しかなく、その多くがピックアップトラック型だとすれば、ジープタイプの4型の生産台数は一割程度と仮定して50台を超えるとは思えないので、現存写真が無くても納得できるのですが・・・いかがでしょうか?
横浜くろがね商会で工場長をされていた駒井氏も、海軍さんのくろがねは全部トラックばかりだったと証言されています。
上記推論は、一次資料が無く、現時点ではすべて自分の妄想の類です。
しかし妄想とはいえキッカケはあるわけでして・・・この4型ピックアップトラック(2人乗りトラック型)のエンブレムに注目してください!

海軍の錨がしっかり付いています。
ここでもう一度、本稿一版最初の4型の写真をよく見てください・・・やはり錨マークが付いているんです!
ここから先の判断はこれからの資料収集と研究を待たねばなりません。
最後に乗車定員について考察して、後期型の稿を締めたいと思います。
1型と2型は2+2の4名定員です。
3型は2+1の3名定員です。
4型は影山氏の記述では2+2の4名定員となりますが、5型は3名と4名の二種類があったとされています。
3型のロードスタータイプの室内容積を増やしたジープ型にすることで、4型は後席横並び2名を実現したわけです。
現在確認できる5型の写真では後席は3型に逆戻りして真中に1名となり、3名定員です。せっかく室内容積を増やしたのに、どうして後戻りするような仕様が存在するのか?そのヒントは後期型のシャーシ写真にあります。
燃料タンクの位置をもう一度確認してください!
5型から燃料タンクがフレーム上部に移動したことにより、貴重な室内容積が大きく削がれていることが判ります。
これにより、後部座席が4型よりも数十センチ前進し、後席乗員の両足は3型同様にフロント左右シートの真中に投げ出すしか無かったと考えられないでしょうか?
4型を後期型ととらえるか?前期型の派生型とするか?
このような視点、論点で過去に語れた形跡はなく、影山氏を初めとする緒先輩方も後期型には3人乗りと4人乗りがあったとう証言に惑わされることになったのではないでしょうか?実際には4型が4人定員、5型は3人定員というのが自分の考えです。
いずれにせよ、戦後の日本軍悪玉説が幅を利かせ、アメリカが持ち込んだ新しいモノ,進歩的なモノが良しとされる経済成長の時代に、影山氏を初めとした先輩方の日本軍車両に対する情熱的な資料収集と研究の結果あればこその仮説です。
じっくりと見極めながら、結論を導くための備忘録としてまとめてみました。
最後までお付き合いありがとうございます。
・・・皆様のご意見、ご感想をお寄せ頂ければ幸いです。